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バナナんバナナんバナナ♪
今日、お弁当のデザートにバナナ1本を持ってきている子がいた。
皮を剥いて、私を見て「いいでしょ〜」とばかりにモグモグ食べていた。

「おいしそうだね〜」

と声を掛けると、まあね、ってな感じで満足そうに
またモグモグ食べていた。

こんな当たり前のような光景。
でも、当たり前じゃない子もいるんだなぁ・・・

給食でバナナが出る時があるんだけど、
そのバナナは丸ごと1本ではなく、
包丁で皮ごと4分割位に切られた長さのバナナ。

そのバナナが食べられない子がいる。
バナナが嫌い、という訳ではない。
皮が剥けないのだ。

そういう子を初めて見たときはビックリしたよなぁ。
ビックリするというより、本当に分からなかった。

「せんせー、バナナ食べられない」
「一口でいいから食べてごらん」
「食べられない〜」

好き嫌いの話だと思ったのよ。
で、その子が食べ始めた姿を見て、あぁ!、と気が付いたってわけ。

だって、皮が付いたままのバナナを、そのまま食べ始めたから・・・
えぇ!!!!と思ったさびっくり

皮はさすがに食べられないと思ったようで、
切り口から歯を突っ込んで食べようとしているのよね。
でも、歯が届くのなんて、ほんの1〜2mm。
皮が剥けずに、食べるのを諦めてしまった。

「バナナは皮を剥いて食べるんだよ」
「できない・・・」
「皮の端っこを持って、下におろすんだよ、ほら」

と私のバナナでお手本を見せて、自分でもやらせてみた。
でも思うように行かず、結局食べるのを諦めてしまった。

そこで剥いてあげてもよかったんだけど・・・
やめた。

家でも親がバナナごときでも皮を剥いて提供しているのかなと思ったから。
自分で努力しなくても、
剥いた状態のバナナを食べることに慣れてしまっては
ダメだと思ったから。
ここで私が剥いてあげては、過保護な親と一緒になっちゃうからね。
バナナくらい、自分で剥かないと。

できないからといって、すぐ助けてもらえるもんではない、と
分かってもらいたかったので、暫く放置。

んで、あとで、一緒に剥いたかな、当時・・・
子供の手を持って、一緒にやった気がする。


たかがバナナなのに・・・
バナナの皮くらい子供は自分でできるんだけど、
親がいつも剥いてあげてしまっていたのでは、
そんなことも自分でできなくなってしまう。

果物に関しては、結構、いる。

バナナだけじゃなくて、
みかんの皮を1人で剥けなかったり、
巨峰を1人で食べられなかったり、
いちごのヘタを一緒に食べちゃったり・・・

バナナの皮を剥いてあげ、
みかんも皮を剥いてあげ、
いちごのヘタも取ってあげ、
巨峰の皮まで剥いてあげ、
挙句の果てに、巨峰の種まで取ってあげてから提供する親もいる。

そういえば、
高校生の子供を持つ親が知り合いにいるんだけど、
高校生の息子にまで、
巨峰の皮を剥いて種まで取っている過保護な親までいる。

同居する30代の息子に対して、
夕飯に魚を出すと、骨を取ってあげる親もいる。

・・・気色わるっ

たかがバナナ、と思うかもしれないけど、
エスカレートすると、そういう親になっちゃうんだろうなぁ。

今だけよ、今だけ、
さすがに高校生になってまでそんなに手を出さないわよぉ、
30代で魚の骨!? ありえな〜い、
私が手を出しちゃうのは今だけよぉ

な〜んて思っている人に限って、
そういう親のなっちゃうかも・・・!?

3歳だって、
バナナやみかんや巨峰の皮くらい剥けます。
今だけ手伝う、なんて言わないで、
今から自分でやらせてあげてよねー

ま、親としては
「汚れる・・汁が垂れる・・・」ってのもあるのも分かるから、
懐おおきくして、台布巾待機させて、頑張ってみてちょ。
| - | 23:58 | - | trackbacks(0) | -
「斉藤さん」パート2
今日の話はゲーム機がテーマだった。
このブログで何度も書いているように、
私は斉藤さん同様、ゲーム機が嫌いだ。

「そんなもので遊ぶ姿は何だか寂しい」
「そんなものより自然へ連れ出し、泥まみれで遊んでほしい」

斉藤さんの言葉1つ1つに共感を覚える。

ゲームを持っていないと仲間はずれにされる、
ゲームを持っていないと時代に後れる、
いけないと思っていても結局買ってしまう、

そんな思いもあるだろう。
でも、斉藤さんは言う。

「子供のご機嫌を取るのは簡単。お金さえ出せばいいんだから。」

その通りだよね。
手間も時間もかかるけど、そういう子育ての方がいい。

・・・と、そんな風にふんふん息巻きながら観ていた。
でも、今回私が観ていて、心に残ったのは
そんなゲーム機の話ではなかった。

はっきり言おう。
「斉藤さん」に出てくる「こばと幼稚園」、
あの幼稚園の先生、最低だ。

今回、この「斉藤さん」を観ている間に3回も泣いてしまった。
2回目は、子供が謝る場面。
辛い葛藤の末、正しい道を選べた子供のまっすぐな心、正直な心。
そして、ゲーム機を取ったその理由・・!
心が動かされない幼稚園の先生がいたら、
よほど鈍感で感性のない先生だろう。

3回目は、斉藤さんのクリスマスプレゼント。
「心に残るプレゼント」を贈ったわけだ。
最後まで何があろうとお金に走らず、心に訴えるプレゼント、
そんな心を持つ子供に育てたいという思いを貫いた斉藤さんに感激して
涙が止まらなかった。

でも、1回目は・・・怒りで泣いた。
私の中ではあるまじき幼稚園側の対応に、怒りのあまり涙が出た。
あの幼稚園の先生、最低だ。

それは、ゲーム機紛失発覚食後の幼稚園教師の対応だ。

「子供の心のことを考えて、持ち物チェックをしなかった。
 家に帰って子供にきいてほしい。」

はぁ!?

ごめん。私の中では、その対応絶対に有り得ない。
なんだ、その丸投げ!!!!

「子供の心を考えて」?
違うでしょ。対応能力がないだけでしょ。

なぜ、親を呼ぶ?
なぜ、親を集めて話す?
幼稚園の中で起こった出来事を、なぜ幼稚園で解決しない?

「子供の心を考えて、持ち物チェックをしなかった」??
本当に子供の心を考えるなら、その日のうちに解決しろや!!!!!!!!!!

私は「持ち物チェック」という行為が子供を傷つけるとは思わない。
傷つけるのは「自分が疑われている」という行為を取った時でしょ?
子どもが見てないところで調べればいいじゃん。

そもそも、ゲーム機を持ってくるのがいけないんだけど、
幼稚園でなくなったんだから、幼稚園にあるはずじゃん!
なぜ一旦家に帰す?

今回のように、子供たち全員に問題が知れ渡ってしまった場合、
一番子供を傷つけないのは、
問題をうやむやにすることではない。
違う。

悪いことは悪い、とはっきり子供に教え、
どうしたらいいか一緒に考え、正しい道を示すことだと思う。

私なら、まず、持ち主の子供に聞く。
本当に持ってきていたのか、先に確かめる。
「盗られた」が前提ではなく、「なくした」かもしれないじゃん。
「盗った」前提で進めるなんて保育者じゃない。
ま、ゲーム持込みが発覚した時点で、まず叱るけどさ。

もしも今回のようなパターンで、
自分でなくしたんじゃないのだとしたら、
何か知っていることはないか、そこで初めて周りの子供に聞く。
大抵誰かが何かを見ているので教えてくれるが、
今回のように嘘をついていて誰も何も言ってくれないのなら、
陰で持ち物チェックをする。

必ずどこかにあるはずなんだから。

そしたら見つかるじゃん?
そんで、その子をこっそり呼んで、話を聞く。
持っているということは、何らかの理由があるはずだ。
悪い、と決め付けず、まず理由を聞かないと。

「何か必ず理由があるはずだよね。
 先生は○○くんが悪い子だなんて全然思ってない。
 先生は○○くんがすごく良い子なのをよ〜く知っている。
 だから、その理由が知りたいだけ。
 先生は全然怒ってない。話が聞きたいだけ。
 ただ、正直に話さないと怒るよ。」

こう話して、聞き込みするね。
事情が分かったら、持ち主の子供(Aくん)、
とってしまった子供(Bくん)の2人を呼んで
そこで話をする。

なぜとってしまったのか、をAくんにも説明、
遊びたいならどうすればよかったのかをBくんと考え、
BくんがAくんと遊びたかった気持ちをAくんに伝え、
どうしたらよかったか、を一緒に考える。
そしてその上で、Bくんには、自分のしたことについて謝ってもらう。

子供と一緒に考えていくことと、
加害者・被害者みたいに決め付けないこと。

双方の話をきかないと、分からないことも多いんだから。

「悪いことを素直に認めて、きっちり謝る」
と斉藤さんは言っていたが、本当にその通りだ。

ただ、
「みんなの前で謝る。傷つくから覚える」
は、私はやらないかな。
その考えもアリだとは思うけど、
私はやらない。

今回のようにみんなに知れ渡った場合でも、
上記のように2人で話し合い解決したあとに、
みんなには私から話す。

悪いことを伝えるのではなく、
悪いと認めたことがまず偉い、ということ、
ちゃんと謝って解決できたということ、を伝える。

以前にも書いたけど、
誰にでも間違いはある。
ついやってしまうこともある。

大事なのは、その後だ。
自分で認め、自分で解決できるか、だ。

大人なら「謝って済む問題じゃない」になるだろうけど、
まだ幼稚園児、
まずは悪いと認める勇気、解決できる前向きさが大事。

斉藤さんのように、その機会を与えてあげないと、
子供はいつまでも後悔し続けてしまうし、反省する場もなくなってしまう。
うやむやにすると、
良い事と悪い事の区別のつかない子供になってしまう。

そんなことも分からない「こばと幼稚園」の先生たちに
心底腹が立ったんです。

丸投げにして、親に問題解決を委ねて・・・
「真野さん」があそこまで悩んだのは
こばと幼稚園のふがいなさのせいだよ!
幼稚園で解決すべき問題を!!

あまりにも無責任すぎる「こばと幼稚園」の先生の対応に
心底ムカつくわ!!!!!!!!!!!!!!!!!

あんなのを放送されたら、
幼稚園の先生って皆あんなもんだと思われちゃうじゃん!

あ〜〜〜〜〜〜!ムカつく!!!!!!!!!!!!!
| - | 22:14 | - | trackbacks(0) | -
工夫
子供が毎日おこなう活動。
学校で言うなら「授業」、幼稚園用語では「主活動」。
この主活動の内容はどこからくるのか。

私たち幼稚園教師には当たり前だけど、
お母さんたちは知らないだろうなぁ、と思って。

1月になると、いろんな業者から色んな教材が送られてくるんだー。
学研・すずき出版・チャイルド・・・・

もじ教材・数の教材・切り紙の教材・工作の教材etcだけでなく
はさみ・のり・クレヨン・誕生カード・粘土・絵本など、
何から何まで幼稚園グッズ全てが入ったダンボールが送られてくる。

教材を使う場合は
その中から、次年度はどれにしようか、と教材研究をするわけよ。

それが主活動に幹となる部分を占めることもあるからね。
そういう幼稚園もある。

でも、主活動というのは、
そういう業者から送られてくる教材が全てではない。
教師がオリジナルで考え出した内容も数多くある。

教材とオリジナルと、どちらの方が割合が多いのかは
各幼稚園によって違う。

今日はその「オリジナル」で考え出された活動内容の話なんだけど。
オリジナル活動を考えるときは、
それはそれは沢山教材研究をおこなうわけよ。

素材・大きさ・色・材質・工程・内容の難しさ等等、
様々な点を考え、
決定するまでに何度も試作品を作っている。

この活動を通して子供に何を経験させたいのか、
どこまで頑張らせたいのか、
つまり、何をねらいとするのか。

何度も考えて決定していくわけ。

そこまで考え抜いた活動内容でも、
いざ実際にやってみたら、
あそこをああすればよかった、ここはよかった、など
良い点もあれば改善点もあるわけよ。

考え抜いた内容だからといって完璧とは限らないわけ。

それをふまえた上で聞いてください。

「来月の空いた日でどんな活動を入れようか」と学年で話し合うとき、
「去年、あれやったからやろう」となるときがあるじゃない?

私は「去年やったから」という理由が嫌いです。
「去年やってよかったから」というのならいいんだけど
「去年やったから」という理由は嫌なんです。

何にも考えてないみたいで。

しかもね、去年のものを出してきて
「これでいいよね」っていうのはもっと嫌い。

先にも述べたように、改善点はあるかもしれない。
去年の子と今年の子とでは違う。
今年の子、今の子にあったものを検討していかなくちゃいけないのに、
ただ単に去年のものをそのまま出してきて
「これでやろう」というのが大嫌いです。

去年はこれでやったけど、どうだったのか、
今年の子に合っているのか、
改善点はあるのか、
そこをまず最初に検討すべき。
そして、今年のその学年の先生全員で一度やってみるべき。

そこで初めて今年なりの改善点が見えてくると思うんだ。
実際に作ってみて、やってみたら、
改善点は何もなく、
結果として去年のまま、そのまま採用することになった、っていうのはOK。

ちゃんと教材研究をしての結果だから。

教材研究もせず、
ただ「去年やってたから」という理由だけで
安易に内容を決めようとするやり方は、
あまりにも怠慢な気がしませんか?

もっといい方法があるのかもしれない、
もっといい内容に変えられるかもしれない、

常にそういう向上心をもって
活動内容を検討しなくちゃいけないと思うんです。

そういう検討は確かに時間がかかる。
面倒くさいかもしれない。
時間がかかればかかるほど、仕事はたまっていくし。

でも、それはとても大切な仕事だと思う。
幼稚園の先生というのは、一般の人が考えている以上に、
仕事量が多く、持ち帰りの仕事も相当あり、
自分の時間なんて平日はまずない。

できるなら仕事量が少ない方が有難い。

でも、主活動に内容を十分に検討する、という大事な時間は
削ってはいけないと思う。

良いものは使い回す。
それはいいの。
良いものは良いんだから。

その行為自体を否定しているんじゃなくて、
どこがいいのかを理解した上で使い回してほしい。

あぁ・・うまく書けないんだけど・・・

「去年○○だったんで」という台詞と一緒に何か案を出してくる先生がいてさ。
今年度、あまりにも何回もその台詞を聞くもんで、
なんだかムカムカしちゃって。

自分で考えろや。
工夫しようとしろや。

去年の案をそのままそっくりマネするんじゃなくてさぁ・・・

形だけ真似して、
どうしてその活動内容になったのかまで理解していないから、
中途半端な活動内容でグダグダになっていることに
どうして気が付かないのかなぁ・・・

「去年もやったから」
私が嫌いな言葉です。
| - | 20:47 | - | trackbacks(0) | -
話を聞く態度
幼稚園では、
「先生の話をちゃんと聞けるか」ってのは結構大きい。

人の話をちゃんと聞けない、ってのは問題だし。
まだ小さいから聞けなくても仕方ない、と思うのは間違い。
人の話をちゃんと聞けるか、は大きな問題だ。

以前幼稚園児を持つ友達が、新聞で
小学校にあがるまでにこれはできますか?っていう記事があったらしくて、
その項目に

●人の話を最後までちゃんと聞ける
●大きな声で返事ができる
●自分の名前が書ける
●挨拶ができる
●自分のことは自分でできる

というようなものがあったとか。
「絶対無理〜」と言っていたのを見て、ちょっとビックリした。

そうか・・・親御さんの意識ってそんなものなのか・・・と。
私たち幼稚園教師からしてみたら、
上記のような項目は、まぁ当然な項目だよねぇ。
私達が日々やっているのは、これだけじゃないし。
もっともっと上をやっていたりするしねー。

と、思ったときに、
先生の話をちゃんと聞く、ってのができなくても
別にいいと思っている親御さんもいるのかもしれない、と感じたんだよね。

ダメでしょー。それは。

「先生の話を聞く」ってのは、
別に私たちの言う事を素直にきいてろ、って意味じゃない。

「言うことをきく」じゃなくて「話を聞く」。

人の話にどれだけ集中して耳を傾けられるかってことだと思うんだ。
どれだけ理解しようと耳を傾けられるか、と。

でも、それは担任の力が一番大きい。
普段から先生の話がつまらなかったり、
子供たちを惹きつける話し方ができなかったりしていると、
子供たちの「聞く力」は育まれていかない。

どれだけ「聞く力」を付けさせてあげられるか、は担任の力量なのだ。
少なくとも私はそう思う。

だから、参観日とかでクラスを見るときに、
我が子がどれだけ先生の話を聞けているか、をポイントに見るのもいいかも。

クラス全体があんまり聞けてないようであれば、
それは担任の先生の力量不足であるといえると思うし、
皆は聞けているのに我が子だけ上の空だったり聞けていなかったりしたら、
それは家庭での改善点があるのかもしれないし。

「話を聞く」
すごく大事なことです。
家でも、お母さんの話をちゃんと聞けるのか、
お父さんの話をちゃんと聞けるのか、
大事ですよね。

耳だけで何となく話を聞く、じゃない。
話というのは耳だけで聞くもんじゃないからね。

目よ、目。
話ってのは目でも聞く。
そっぽ向いているけど、耳は聞いてる、なんてのはダメ。
ちゃんと話している人の目を見て聞けるか、ね。

あと、心も。
耳も傾け、目も見ていても、ボーッと聞いていたんじゃ意味がない。
相手が何を言おうとしているのか理解しようとしながら聞く。
心も傾ける。

「話を聞く」ってのは、
耳と、目と、心で聞くものだから。

集中力でもあり、一生懸命さでもあり、意欲でもある。
ただ単に「聞く」という行為ではなく、
裏にはこういうのが隠されている。

「聞く」という行為ができるのかを見ているのではなく、
その裏の集中力・一生懸命さ・意欲を見ているのだ。

幼稚園では、こういうのもすごく大事にしているんです。
| - | 23:55 | - | trackbacks(0) | -
遊んできました☆
久しぶりに会う友達と、今日はいっぱい遊んできました♪

ボーリング行って、飲んだだけなんだけど、
やっぱり友達と遊ぶのは楽しいね〜楽しい

全くスペアが取れずに、
初めて80という出したこともないスコアを叩き出し爆笑したり☆
2ゲーム目では本調子になり、
158で、さっきのは何だったんだ〜、と笑っちゃったり☆

飲み屋で最後にデザートを頼む時に、
メニューに真っ黒の「黒胡麻杏仁豆腐」があり、
美味しそう♪と思って注文したのに、
出てきたのは真っ白の杏仁豆腐だったり。

確認したら、これが「黒胡麻杏仁豆腐」です、とか言われて。
真っ白の上にお飾り程度にかかっている黒いのが黒胡麻ですとか言って。
これじゃ〜「黒胡麻杏仁豆腐」じゃなくて
ただの「杏仁豆腐黒胡麻ソースがけ」じゃん。

「メニューの写真と全っ然違うんですね〜むかっ」と言ってみても
「はぁ・・」とやる気のない返事だったりー。

そんなくだらないことも、友達と一緒だと笑えちゃったりする☆

1人だと凹むけどね(笑)
帰り道、既に23:30だったから、携帯で一番早く帰れる乗り継ぎを検索して、
その方法で帰ったのに、
地元の駅を寝過ごしてしまったり。

1駅戻るには15分も電車を待たなくちゃいけなくて、
これじゃ一番早く帰れる乗り継ぎを検索した意味ないじゃん、と思い
どうせ地元の駅からでもタクるつもりだったから、まぁいいかと思って、
その駅からタクシーで帰ったんだけど、
運賃値上げにより、予想より高くついてしまったり。

友達と一緒だと笑えるのに、
1人だと、こういうの本当に凹むよね〜(笑)

今日は友達と会う前に、
ネイルサロンで甘皮ケアをしてもらってたら、血だらけにされたり、
壊れた携帯を直しに行ったら、
店員さんがトンチンカンが受け答えをしていてイライラしたり、
今日は本当に色んなことがあったけど、

それでもやっぱり、友達と遊んだことで帳消しになった気分。

あ〜、楽しい1日だった♪
| - | 23:59 | - | trackbacks(0) | -
寒さに負けるな
寒い寒い。
冬なんだから当たり前。

大人の世界だけなら、寒いからあったかくしてよう、で済むけど
幼稚園ではそんな甘っちょろいことではいけない。

寒いからこそ外で出ろ、である。

走ればあったかくなるもん。
鬼ごっこすればあったかくなるもん。

じっとしているから寒いんであって、
動けば体は温まるようにできてんのよ、人間ってのは。

だから、教室の中でぬくぬく・・なんてダメダメ!

ところが、この時期になると、
登園しても なかなか着替えずに、
いつまでも教室の中でぬくぬくしている子供が増える。

担任がうまく対応していればそんな事は起きないんだけど、
気を抜いていたり、子供をうまく導けない担任だったりすると
子供はあっと言う間に外で遊ばなくなってしまう。

いかんね、いかん。

というわけで、
寒がってなかなか外に出ない子供を外に出そうとしている私。

今、画策しているのは、隣のクラス。
私のクラスじゃないんだけどね(笑)
だってさ〜〜〜、隣のクラスの子供達、
登園しても、なっかなか外に出てこないんだもん。

担任はまだ経験が浅い先生だからなぁ。
仕方ないのかもしれないけど、そのままにはしておけないよ。
子供も可哀想だもん。

だから、隣のクラスに「おはようございま〜〜す!」と入っては、
「長い針が○までに着替えてね!」と
子供と約束しています。

ダラダラと着替えなかった子供たちも、
目標時間が設定されたことで、
なんだかゲーム感覚になり、急いで着替え始めるんだよね〜。

「○○ちゃん早いっ!もう脱いでる! 
 △△くんも早いっ!もうボタン外そうとしている!」

などど、今現在やっている行動に対して
実況中継にように褒めていくと、より一層やる気を増す子供達ぴかぴか
当たり前のことだけど、
褒めることで子供はどんどん伸びていくからねおはな

リアルタイムで子供を褒めるのであれば、
できるまで褒めるのを待つんじゃなくて、
今頑張っている事・頑張ろうとしている事を褒める!


朝、家でなかなか自分で着替えが進まない我が子に対して
業を煮やしているお母さんがいたら、
是非この手を使って頂きたいですね。
かなり効果的ですからチョキ

着替え終わると、
「できた!先生、見て!」とものすごく嬉しそうに言ってくる。
そこで、また思いっきり褒めるわけよ。
「すご〜〜〜い!!!!!!!もう終わっちゃったの!?」

すると子供は、更に嬉しくなり
「先生!一緒に遊ぼう!」と実にキラキラした目で外遊びに誘ってくれますぴかぴか

一方で、目標時間までに着替え終わらなかった子で、
頑張ってたんだけど終わらなかった、ではなくて
ボーッとしてたり遊んでたりして終わらなかった子に対しては、
そこは叱る。

可哀想、と思うかもしれないが、
そこは けじめ。
約束したんだから。

ここで流してしまっては、結局中途半端になってしまうし、
目標時間を設定した意味がない。
けじめもなくなるし、頑張る気持ちも育たない。

私に喝を入れられて涙を流す子もいるけどね。
そこは仕方ない。
鬼になる時も必要なのだ。

んで、また改めて目標時間を設定する。
叱られた以上、既に反省しているので、急ぐ急ぐイヒヒ
だから、その頑張っている様子を
また実況中継で褒めてあげるわけさ。

で、終わると、
「本当は○分までだったんだからね」と一応釘をさす。

すぐ褒めてしまっては、喝にならないし、
一度約束した時間を破っても、
再度設定された時間さえ守れば褒めてもらえる、と思ってしまい、
次回頑張ろうという気持ちにならないから。

で、その後すぐに、
再目標時間に向けて頑張ったことを認め、褒めてあげるのよ。

すると、子供の中にはけじめも芽生え、
褒められて嬉しい気持ちにもなり、次回へと繋がっていく。

そんで「先生、一緒に遊ぼう!」となっていくんだな、これが。
叱られたからといって、嫌いになったりビクビクしたりするわけじゃない。
正しく叱り、正しく褒めれば、
子供はちゃんと ついてくるんです。

それと、忘れちゃいけないのが、
こういう場合ちゃんと外遊びを盛り上げること。

外遊びが楽しくなければ、
そもそも早く着替えたいという気持ちにはならない。
外に出したいのなら、
担任が自ら率先して外遊びを盛り上げねばいけない。

こういう寒い時期、そして3学期というのを踏まえると、
集団で走って遊べるものがいいよね。

今日は、隣のクラスではあるけれど、
着替えを促して外に出した後、
隣のクラスの子を集めて思いっきり走りこんで遊びました☆

やっぱり、走って遊ぶのは楽しいね!
スカッとするし、寒さも吹っ飛ぶ!

こういう感覚、
寒い寒いといつまでも部屋の中にいたんじゃ味わえないからね!

そのためにも、
やっぱり早く着替えて外に出て、いっぱい走って遊べるように、
担任は動いていかないとね!
| - | 22:25 | - | trackbacks(0) | -
嬉しいとき〜
今日、製作の活動があった。
その製作物の本体なるものが、三角柱。

長方形の紙に、平行状に3本折り線(4面できる)があり、
それを組み立てると筒状の三角柱ができる、というもの。

大人なら簡単に三角に組み立てられる。
造作もないこと。

でも、これが3歳児にはなかなかどうして難しい。
横から見たら三角になるように組み立てることを伝えても、
簡単なものじゃない。

経験値も大きく左右するのだが、
幼稚園での初めての立体組み立てとなるとしたら、やはり難しい。

折り紙も立体だけど、
折り紙っていうのは、しっかり折って折り線をつけるでしょ?
折ってるときは「平面」なのよ。
でも、この三角柱なるものは、折り紙のように潰しちゃダメなのよね。

折り紙をやっているからといって、三角柱の立体もできるとは限らない。
3次元の世界は、子供にとってそんなに簡単な世界じゃないのだ。

折る線の長さ・紙質・紙の硬さ、の3点の教材研究が必要なんだな。
「1人で折って組み立てる」にはそれなりの段階を踏まないといけない。

硬めの紙・折り線はつけておく
(柔らかいと潰れやすい・組み立てに集中させるため折り線はつけておく
 初回なので組み立てを重視)
     ↓
柔らかい紙・折る距離は短くする
(1度組み立てをしたので、折る事も狙いとする。
 線の上でしっかり折れないと組み立てが困難になるため
 折りやすいように紙を柔らかく、距離も短くするというわけ)
     ↓
硬め、若しくは普通の硬さの紙
(紙はある程度硬い方が組み立てやすいから。
 難易度を上げたければ、折る距離を長くしたり、折り線を増やしたりする)

とまあ、こんな感じ。

それを理解せず、教材研究もせずに、
簡単に3歳児の1回目の立体製作として取り上げてしまう先生がいたら
それは考えが浅すぎるというもの。

おっと、違う違う。
愚痴を言いたいんじゃなくて、
それ程「簡単に組み立てられるものじゃない」って事を言いたかったの。

それを踏まえた上で、今日の話を聞いて下さい。

折り線の付いた紙を組み立てようとしているゆうくん(仮名)。
立体になるのは分かっているんだけど、
何度やっても折り紙のように折りたたんでしまい、
ぺっちゃんこになってしまう。
三角柱にするには、端っこ同士の面を重ねて立たせるんだけど、
折り込んでしまって、ぺっちゃんこになっちゃうの。

『あれ〜〜〜???』という表情のゆうくん。
(以後『』はゆうくんの心の声。と言っても私の想像だけど)
目的の形は分かっている。でも、できない。

もう1度やってみる。
『・・・できない。』

悩むゆうくん。
まぁ、いいか、とぺっちゃんこのままで進めようとした矢先に
私の方をちらっと見た。

試行錯誤した後に、ぺっちゃんこのまま進めようと自分で決めた、
という過程も、「自分で考えた」のでそれでもいいのだが、
ゆうくんなら、もっと踏み込んで、もっと先にいけると信じている。
ゆうくんなら、でこる。

首を傾げて「それはどうかなぁ」という表情を見せ、
手で三角を作って見せた。

『やっぱり三角じゃないとダメかー・・やってみるかぁ』

そして再度チャレンジ。
ぺっちゃんこになり、また開いて、首をかしげ・・の繰り返し。
でも、ふと、端と端の面を重ねた瞬間、
おぉ!立った!

ゆうくんも、『おぉ・・!』と思ったと同時に仕組みが分かったらしく
確かめたいのか、1回開いて、また重ねてみた。

おぉ。立った。
すごいすごい!

でも、残念な事に、真ん中の線を1本折り忘れているため
立体にはなったが、三角柱ではなく円柱のような形になっている。

ゆうくんも気が付いたらしい。
組み立てた物を横から見て、
△ではなく、上が尖っていない半円になっているのを確認。

『あれぇ???』

上から手で押してみる。潰れた。
『こうじゃないか』

横から押してみる。潰れた。
『こうでもないか・・・』

悩むゆうくん。
『ま、いいかー。立ったし。』

と、またしても次の工程に進もうとしたが、
また私の方を見たんだな。

ここまでくれば、ゆうくんならできるだろう。
私はにっこり笑って、手で△を作ってみせた。

『やっぱり三角かぁ〜・・・』

先生、よく見てるなぁ[:がく〜:]、とでも思ってんのかもしれない。
あわよくば、そのまま進めようって感じだったし。

また挑戦するゆうくん。
そこで、ふと周りを見た。
すぐ近くでは三角柱が完成している友達がいた。

自分のと見比べるゆうくん。
『どこが違うんだ???』
よーーーーく見ている。

『あ!ここか!』
ゆうくんは、1本折り忘れている事に気が付いたようだ。
でも、もう半円柱に組み立てちゃった際に糊を付けてしまっていた。

今からなら剥がせば間に合うのだが、
「剥がす」というのは面倒だったのか、浮かばなかったのか、
そのままてっぺんに折り線を付け始めた。

ふわふわ浮いているような状態で折り線を付けるのは
難しいんだけどね。曲がっちゃうし。

折り線通り、とまではいかないまでも、
さっきまでの半円よりも、より△に近い形になった!

『できた!』
どうだと言わんばかりの顔で私の方を見てきた。

ここまでやれば十分!よく頑張った!
・・・と伝わるような表情でにっこり笑って見せると、
ゆうくんは満足して次の工程に進んでいきました☆


頑張って頑張って、試行錯誤しながら頑張る姿、
諦めないで努力する姿、
できようができまいが一生懸命になる姿、

そういう子供の姿を見ると、私はすご〜く嬉しくなるんです。
子供の持っている力はすごい。

簡単に諦めさせるような対応は絶対にしちゃいけないと思っています。
頑張る気持ち、諦めない気持ち、やってみようとする気持ち、
それが育つような環境にもっていってあげるのが、
教師の役目だもんね!
| - | 21:35 | - | trackbacks(0) | -
階段
私が幼稚園に勤め始めた時はいなかったのに、今はいる、
という子供の現象の1つに
「階段が1人で降りられない」というのが挙げられる。

怖い、1人で降りられない、
と階段のてっぺんに1人で残すと泣いてしまい、
1人で降りて来られないのだ。

こういう子を見ていると、
親が手を出しすぎることがどういうことなのか、を
分かってない親が増えたってことなんだろうな〜と感じる。

たとえ3歳と言えども、
生きてきた中で階段に出会ったことはない、なんて事はないはずだ。
きっと、階段を通る度に親が手を繋いで降りていたに違いない。

「1人じゃ危ないから」
「落ちたら大変だから」

そんな理由なのかな。
1人で降りられない方がよっぽど危ないと思うんだけど。

階段くらい1人で降りさせなよ、って思う。
1歳ならまだしも、2歳になれば階段くらい1人でできるよ。
通勤ラッシュの駅の階段っていうなら話は別だけど、
そうでないなら階段くらい別に危なくないのに。

毎回手を繋いでいるんだろうか。
なぜそんなことをするんだろうか。

『自分でやらせなければ、できるようにならない』
これは全てにおいて言えることなのに。

ボタン・チャック・着脱・トイレ大のお尻拭き・幼稚園の用意・
お弁当を鞄に詰める・はさみ・糊・クレヨン・折り紙・・・

なんでも。なんでも同じ。
階段だって同じ。

手を貸してあげて「安全だわ」と思うのは勝手だけど
3歳にもなってそんなことをやっているようでは
むしろそれは単なる親のエゴだろう。

子供が可哀想だ。

幼稚園では、
たかが階段で「降りられない」と泣いても手を貸してはもらえない。

「1人で降りられるよ」
「頑張ってごらん」

と、先生は階段の少し先で励ますくらいだ。
4月なら、片手を持ってあげるけど、
それも階段の最初の数段で、
少し降りたら、繋いだ手を少しずつ上に持ち上げながら
その手を放しにかかるからね。

階段の最後の1段まで手を繋いで降りてあげることは まずないさ。
そんな過保護な真似は、幼稚園ではしないもん。

家庭で親が手を出しすぎていると、
その子供は幼稚園でとても苦労する。

結果としてできるようになるんだけど、
家庭でやるべきことをやらず、
幼稚園に任せっきりってのはどうかと思うんだよね。

家庭と幼稚園と両方で頑張ってできるようになっていく、
これが近道じゃないっすか?

家庭だけが頑張ってもダメ、
幼稚園だけが頑張ってもダメ。

両方で頑張っていかないと、と思います。

ま、階段は「両方で頑張っていく」という類の話じゃないと思うけどー。
| - | 23:36 | - | trackbacks(0) | -
「斉藤さん」
友達に勧められて、今日初めて観た。

CMで観て興味はあったんだけどさ。
初回を逃しちゃったから、もういいや〜と思ってたら
友達から「是非観て!」と勧められたんだよね。

初回を観ていないから、
ゴミとかバザーとか分からない関連も多かったんだけど、
久々に観ていて腹が立つ番組だった。

いる。
こういう奴。
こういうムカつく奴。

さーて、
ムカつく奴とは、斉藤さんか、三上さんか。

ふっ。
ここで「三上さん」と思った人は、私とは気が合わないや。

正しい事をして何が悪い?
それが引き金になって、更に悪い方へ事態が進んだとしても、
悪いのは「悪いことをしている奴」であり、
「引き金になった正しい事をした人」ではない!

今日のドラマの中に気になる台詞があった。
「正しい事と、正しい判断は違う」と。

ここでいう「正しい判断」とは「事を荒立てないこと」だった。
なんじゃ、そりゃ。
私には分からない。

火に油を注ぐなって事だろうが、
火をつけて回っているのを止めに行くのが何故悪いのか、って感じ。

私も「正しい事」をやっているつもり。
でも、理事長には嫌われています。
大人しくしてろ、ってことなんでしょう。
口応えするな、と。

理事長の考えが明らかに間違っていて、
それを「それは違うと思う」と言うのが何故悪い??

何が間違っているのか、そこは個人の道徳心の問題もあると思う。
保育観の問題もあると思う。

数年前の話だが、
苦情を言ってきた親がいた時に、親がいない所で

「子供を幼稚園に預けておいて、よく苦情が言えるなぁ。
 人質を預けているようなもんなのになぁ。
 子供が心配なら、常識ある人なら苦情なんて言えないよな」

と言っていた。
こんな発言、私は絶対に許せない。
だから反論した。
そしたら「先生は、まだ若いから分からないんだよ」と鼻で笑われた。
でも、そこで黙っているのは正しい事じゃないと思ったから反論した。
すると逆ギレされ、嫌われるようになっていった。

私は間違っていないと思う。
でも、このドラマで言う『正しい判断』とやらをするのなら
理事長の台詞に同調することでしょ。

反論したら事が荒立ったんだから、
賛同することが事を荒立てない方法だったのよ、当時の状況では。

正しい事は、やはりやっていきたい。
間違っていることに賛同はできない。

人間関係があるのも分かる。
斉藤さんのように、正しい事をするとハブられるのも分かる。

でも、それでもやっぱり、
私は自分が正しいと思うことをしていきたい。
胸を張って生きていくためにも。

筋が通ってない人間は、いずれ崩れると思うから。

だから私は『斉藤さん』のように嫌われるタイプなんだと思う。
そんな風に感じた。

・・・・でも、観終わった後、
『斉藤さん』を勧めてくれた友達とメールのやり取りをしていて
奮起させられた。

正しいことを一緒にやろうとする仲間がいることを
とても心強く、そして嬉しく思った。


なんか訳分からない文章になってしまって、すみません。
本当はたまった分のブログを書くはずだったんだけど
ドラマを観てあまりに熱くなったんで
思わず「今日」を先にアップしちゃいました。
| - | 23:47 | - | trackbacks(0) | -
「1人だけ違う」
「1人だけ違う」

この言葉にはいろんな解釈が含まれているので、
この言葉を使うのはちょっと難しいな、と今ふと思った。

たとえば、
職員全員で共通理解をするために、
ある特定の出来事を全員で確認し、
全員で確認したものを一律に子供におろしていきましょう、
としたとする。

でも実際に子供におろす時に、
1人の先生だけ全然違う内容で子供におろしていたとする。

その場合の「1人だけ違う」は悪い意味。
確認したことを理解していなかったの?となり、
仕事ができない人、ということになる。

一方で、
「雪」をテーマに子供が絵を描く活動があったとする。
多くの人が
スキーだの、雪が降っている様子だの、
かまくらだの、雪合戦だのの絵を描く中で
1人だけ全然別の、
たとえば真っ白く塗ってそこにうさぎの足跡だけ描くとか超シンプルの
他の人とは違う絵を描いたとする。

その場合の「1人だけ違う」は良い意味だよね。
独創性があるってことだもん。

また、ある一定の活動があり、
同じ学年の先生はみんな似たような導入を行う中で、
1人だけ全く別の角度から捉えた、
でもねらいはしっかり伝わる導入をしたとする。

この場合の「1人だけ違う」も良い意味だ。

でも、みんなが一斉に立って歌っている中で
1人だけ座って歌わず遊んでいたとする。
この場合の「1人だけ違う」は良い意味ではない。

教師全員が園庭に出て掃除しているのに、
1人だけまだ部屋の掃除が終わらずなかなか出てこないとしたら、
この場合の「1人だけ違う」も悪い意味ですよね。

「1人だけ違う」が良い意味で使われているのか、
それとも悪い意味で使われているのか。

それは一重に、
協調性を求められている場なのか、
それとも個性を求められている場なのか、
その違いだ。

言ってみりゃ当たり前のことだし、
読む人が読めば「そんな分り切ったことを・・」を思うだろう。

でも、実際、この違いが分らない教師・親が多い。
そこは揃えるところでしょ、と思う場面で
1人で勝手に判断して、1人だけ違う事を平気でやってしまう教師もいる。

そこは自分で考えてアレンジするところでしょ、と思う場面で
妙に人と同じに揃えたがる教師もいる。

・・・・違い、分らないですか???
と、私はビックリしちゃうんだけどあせあせ

親御さんにも言える。
特に、自由画。

我が子だけぐちゃぐちゃで描いていたり、
我が子だけ訳分らなそうに見える絵を描いていたり、
我が子だけ色遣いのバリエーションが乏しかったりすると、
不安になってしまう人とかね。

絵の場合は、描いている過程で色々な物を描いていて、
結果、出来上がったのだけ見ると、ぐちゃぐちゃに見える、
なんて事も多々あるから、
絵は特に、不安に思ったら、
描いている過程を見ている担任に様子を聞くのが一番ですよ。

みんな一緒、が文化である日本。
みんな一緒が美徳とされている日本。

そんな日本ではあるけれど、
人と違っていて良い部分だってある。
また、人と違っていてはマズイ部分もある。

その区別・判断ができない人がいるってのは、
いささか問題じゃないかと思うわけであります。

そんな人が幼稚園の先生をやっているとしたら、
いささかどころか、結構な問題なんじゃないかと思うわけであります。

昨日ちょっとそんなことがあったので・・・
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