スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | -
勘弁しやがれ、このクソオヤジ!
 
お下品な言葉遣いの題名になってしまい
大変失礼致しましたm(_ _)m

でも、
同じ体験をしたら、
絶対に誰もが同じように思うはずです。


一言でいうなれば、痴漢ですよ、はい。


電車の痴漢ってのは2種類あるでしょー。

触ってくる系と、押し付けてくる系。


もうさぁ・・・
後者って最悪じゃない?↓↓↓

前者なら、触ってくる手を思いっきりつねるとか
持っているペンとかで思いっきり刺すとかして撃退できるけどー。

後者はさぁ・・・↓↓↓



しかも、

めっちゃ上向きのナマ。


チョ〜〜〜〜〜〜勘弁してほしい!!!!!!!!!!!!!!!!!



満員電車だと身動き取れないし、
触ってくる手みたいに撃退できないし。


痴漢にあって、

「この人、痴漢でーす!!!!」

と現場で言える女性って、一体どれくらいいるんだろう・・・

私は言えない・・・↓
防御で精一杯。

駅員に突き出すとか、できない。
やりたいけど、できない・・・


今回のクソオヤジも、
駅に着く直前にしまって、
駅に着いた途端に、一目散にダッシュして逃げていった。

もし追いつけたら、捕まえてやろうと思って、
追いかけてみたんだけど、
速い速い。

めっちゃダッシュで逃げてったさ。


後ろ姿からすると、
真面目なニュースキャスターみたいな、
常識ある年配の男性って感じなのに・・・

もーやだー。
満員電車(T_T)


下ネタでごめんなさい・・・

でも、
本当に本当に本当に気持ち悪くて、

この怒り、どこにぶつけていいものかと思って、
ついブログに書いちゃいました↓
| - | 00:16 | - | trackbacks(0) | -
『体罰』
 今日も体罰に関するニュースを目にした。

野球部監督がバッドでお尻を叩こうとしたところ、
子どもが避けた際に右腕に当たって骨折したとのこと。


正直、

「運が悪かったねー」ってのが本音。

生徒も、監督も。



正直に書こう。
私は、体罰に関して世の中敏感すぎると思ってます。

ちょっとでも教師が手をあげたら、
すぐに「体罰だ」と訴える親。

バカじゃないの?って思ってしまう。

なんで、いちいち騒ぐ??


今の世間がいう「体罰」は
昔は当たり前のように行われていたでしょ。

試合で負ければ、先生に叱咤される際に一喝はあるし、
授業中にふざけたら、廊下や教室内で立たされもした。
水入りバケツ持って立たされるとか、よくあったでしょ。


悪いことをしたらゲンコツで殴られるし、
体育館で、1時間正座させられたりとかさ。

悪いことをしたら、即やられるってので
「すんませ〜ん・・・」って気持ちになるし、
悪いことはいけないんだってのも学校で教えられた。

叱咤激励の中に、「体罰」が入るのも
それも先生の愛情の1つだった。


やられて「くっそ〜〜〜!!」と反発心も抱くけど、
そこは子どもながらに、
結局は自分が悪いんだと分かっているし、
先生の意図も分かるから。


でも、今は、
これら全部「体罰」とj評されてしまう。

教育の一環として必要でもあると思われていたものなのに、
今ではタブーになってしまった。

お陰で、
教師は子どもに一切手をあげないし、
あげたらあげたで問題になるのは分かっているので、
絶対にできない。

子どものためには手をあげることも必要だと分かっていても、
後々面倒なことになるという思いが真っ先に浮かんでしまう。

「子どものため」という大儀は捨てられ、
「面倒にならないために」という自己弁護が優先されてしまう。


そして、
生徒達もそれをよく分かっている。

「何をしても先生は生徒に手をあげられない」
という思いは、教師を見下す態度を生む。

ちょっとでも手を上げたら、
すぐに親にチクって、教育委員会に連絡するという脅しに繋げる。


そういう時代になってしまった。


一体、何が原因なのか・・・。


過保護な親が増えた、
家庭の躾の責任を学校側に責任転嫁する親が増えた、
子育ては家庭でするものなのに学校側に丸投げする親が増えた、

というのもある。

その原因として、
親の立場も大事だけど、自分自身も大事にするという姿勢。

その考え自体は私も大賛成。

『子育て=親の立場=自分自身』という均衡のとれたものであるなら
大賛成だし、必要だとも思う。

でも、方向を間違えて
極端に『自分自身>子育て』となってしまっている親が
こういう事態を招いているのではないかとも思う。

そして、
自分自身の人生を保つために必要とされるもの、
つまりエンターテイメントを提供する側は、
需要があれば利益につながり、
利益は儲けになり、
儲けは生活に潤いを与えてくれる。

となると、親側を支援する流れになるわけで。

しかも、それらの『エンターテイメントを提供する側』というのは
マスコミに通じているもの。

極論になると、
マスコミもそれらを支援している形になる。

言うまでもなく、
マスコミが世間に与える影響は絶大なものなので、
ひいては世間もそれらに共感してしまう。


以前は一切問題視されなかった体罰が、
こんなにもタブーとされ、
いちいち問題として取り上げられるのには、
そんなカラクリがあるんじゃないかと、勝手に分析している。


しかし。

この書き方だと、
親側が一方的に悪いように感じるが、
そうでもないとも思う。


近年は、
教師側の人間性も問題視されるべきものもあると思う。

実際に、怠慢教師の話も現場の先生から聞くし、
誰もが熱血教師・子どものことを第一に考えている教師だとは限らない。

というか、
それがあるから、
いちいち、体罰体罰と、体罰をネタにして
教師バッシングをしようとしているんじゃないかとも思う。

そう思うと、
教師側にも責任はある。

信頼を得ていないからこうなるわけで。

この場合の信頼とは、
親御さんからじゃなくて、子どもからね。

子どもから信頼されていれば、
今の世間でいう「体罰」を受けようとも
体罰とは感じないでしょ。

「やられちゃったよ〜」と親に報告しても、
それは笑い話というか、会話のネタとしての話に留まるので、
親が「なにそれ!?」と目くじら立ててきても、
「あ、そうじゃなくて〜」って子どもが弁護するでしょ。

信頼関係ができていれば。


実際に私も、
部活の練習中にふざけていると
部活顧問にラケットのグリップで思いっきり殴られたよ。

ガットの方じゃなくてグリップかいっっ!!!
痛すぎるわっっ

と思ったし、何かあるとすぐに「体罰」をする先生だったけど、
部員はみんなそのY先生が大好きだったので、
やられても
「またやられたよ〜〜」とネタにするだけだった。

なんなら、
「俺こないだグリップで叩かれたぜ」
「私はこないだ両手ゲンコツで頭を挟まれた〜」
などと、『体罰され自慢』をすることすらあったよな〜。

それだけ、
生徒達は『体罰=先生の愛情』と捉えていたわけ。

そう思えるほどの信頼関係があったから。

別に、部活に一生懸命な先生だったわけでもなく、
どっちかというと、のらりくらり先生だったんだけどね〜。
もっとちゃんと教えてよ、とすら思った。


私が中3の時に、新しい顧問の先生がきて、
その先生は練習熱心で試合の成績も格段にあがり、
念願の「もっとちゃんと教えてよ」は達成されたんだけど
生徒からは好かれてなかったよ。

一生懸命=子どもに好かれる、わけじゃないんだよね。

子どもはちゃんと分かってるのよ。
子どもに対して愛情がある先生かどうか。

Y先生は部活に対しては熱はなかったけど、
子どもに対して愛情はあった。

後任の先生は、部活に対してすごく熱心だったけど
子どもに対して愛情はなかった。

その差。

その差があるからか、私は後任の先生の名前を覚えていない。
Y先生は、フルネームを今でもちゃんと覚えています。


・・・・相変わらず話がそれたけど、
つまり、
教師側にも問題があるってこと。

生徒達と信頼関係を築けていないから、
体罰の問題も大きくなっていくんじゃないかって思う。


親側にも問題があるし、
教師側にも問題がある。


そして、それだけではない問題もあると思う。


例えば、
私と同じような意見を持っている人がいたとしても、
こういう意見をおおっぴらに言うと、

「え!?暴力賛成なわけ!?」

と、周りに受け止められてしまうんではないかとの思いがある。

そこから

「あの人は暴力賛成派みたいよ〜」
「家庭でも子どもに体罰してるんじゃないの〜」

と陰口を叩かれてしまうかも・・という恐怖心が生まれてしまう。

母親間の噂話が持つ影響力は絶大。
お母さんたちはそれを十分に分かっている。

人間誰しも、自分のことをよく見せたいと思うもの。
自分のことを悪く見せたくはないと思うもの。

そういう心理が働くので、
たとえ体罰反対派じゃなくても、
それを言うことはできなくなってしまう。

体罰反対派の人は意見を言いやすい。
そうじゃない人は意見を言いにくい。

となると、
体罰反対派の意見が主流として
世の中に出回ってしまう。

そういうカラクリもあるんじゃないだろうか。


「体罰問題」というのは
いろんな問題が絡み合って生まれているんじゃないかと思います。


私は、
体罰反対派ではない。

かといって、体罰賛成派でもない。

『体罰賛成』という言葉は、暴力賛成と受け止められる気がするので
それは違うかなーと思うから。

体罰容認派かな。

先生を信頼できるかどうかの条件もあるけど。




結局は、

信頼。

やっぱり、そこになるのかなぁ・・・。


体罰問題ってのは、
信頼関係が崩れてきてるってことの象徴なんだろうな〜・・・


信頼を得るだけの力量を発揮できない教師。
信頼しようとしない親。


両方が努力しない限り、
この問題は解決しないんだろうね。


そんなことを
いちいち分析している、おかたい私でありました。
| - | 15:33 | - | trackbacks(0) | -
お疲れ様でした・・・・・

 私の大好きな先生が、
今日をもって、退職されました・・・・(T_T)

私が幼稚園に就職した時には既に働かれていて、
私よりも大先輩の、
とても素敵な先生でした。

いつも優しく、
いつも温かく、
いつも笑顔を絶やさず、
いつも穏やかで、

陽だまりのような先生。

子ども大好きオーラが出まくっていて、
子どもからも好かれていて、
その先生はいつも子どもに囲まれていました。

私なんかの愚痴も、
いつも優しく聞いてくれて、
その先生と話すといつも癒されていました。

大好きな先輩。
大好きな先生。

諸事情により、
年度途中での退職になってしまったけれど、
今までの多大なる功績を思うと、
そんなのチャラって感じです。

実に惜しい人材・・・・


また1人、
宝物の先生を失ったね。

どんな親御さんからも愛されている先生って
なかなかいないよ〜〜。

すごくすごく素敵な先生。

退職は悲しいけれど、
すごく悲しいけれど、
人生はまだまだ続くので、
これからも輝く人生を送ってほしいです。


長い間、本当にお疲れ様でした。


というわけで、
とってもとってもとっても大好きな先生なので、
私は大慰労会を企画することにしました〜〜。

過去の先生たち全員に呼びかけて、
退職祝いをやろうと計画実行中♪

うふふ。


うふふ、じゃないか。
退職は惜しいもんね。

私の心に深く残る先生なだけに、
名残惜しいです・・・。


そして、
私は本当に先輩に恵まれていたな〜って実感します♪

理事長は除外品だけど、
本当に先輩に恵まれていて、
どの先輩からも学ぶことが多くて、
今でも、全ての先輩が尊敬の対象です。

これって、すごい幸せなことだな〜って思う。

失礼ながら、
今の幼稚園ではそうはいかないもん。

一生懸命さの問題?
いや・・違うなぁ。
人間性の問題・・?

う〜〜ん・・・


今は、
ある程度経験して、
知識も考えも持った状態で出会った先輩たちだから、
私が生意気にも失礼ながら評価しちゃってるところがあるんだろうな。

まっさらの状態で出会った1年目からの先輩ってのは、
何もかもが「先輩ってすご〜い」の対象だったからかも。

いや・・・違う。

違うと思う。

経験を積んでから出合ったとしても、
やっぱり尊敬できる考えと行動力と指導力だもん。

そんな先輩に囲まれて仕事ができていたこと、
今更ながら光栄に思います。

そんな中の1人の退職は、
やっぱり寂しいものであります・・・。

本当に、長い間お疲れ様でした(;_;)



ブログでこんなこと書いて、ごめんなさ〜い。

| - | 22:39 | - | trackbacks(0) | -
ナイス指摘!
 幼稚園ネタじゃないんですけど。

なぜNHKのキャスターを見ていると
「あ、髪切った?」と気付くのか、って記事を読みまして。

私は、
NHKニュースをタイマー予約していて
朝はNHKニュースが目覚まし代わり。

そして家を出るまで、ずっとNHKを流しています。

これはもう何年もやっていることなので、
NHKの朝のニュースキャスターは毎日見ているため
この記事にはいたく共感〜。

ほんと、
NHKキャスターの髪型・表情・気分まで分かっちゃう。
キャスターが変わった時には

「カバちゃん(←私が勝手につけていたあだ名)がいない〜〜〜っ」

と大ショックだったし。

朝の連続ドラマ明けの8:30からのニュースなんて、
きっとキャスターも朝ドラの映像を見てるんだろうなって思うくらい、
悲しい場面で終わると悲しい顔してるし、
ほんわかした場面で終わると優しい表情してるんだよね(笑)

そういや、
こないだまでは、
私が朝の支度をしている間のたかだか1時間足らずの間に
必ず毎日誰かが噛んでたよ。

NHKともあろうキャスターが、
しかも朝のニュースという視聴率高いであろう時間帯に、
1時間足らずの間に必ず誰かが噛むって・・・

キャスターってそれでいいの??

と思ったものです。

最近は減ったけど。
それでもよく噛むんだね。NHKのキャスターって。


と、
NHKキャスター話だけで、
私はけっこう盛り上がれたりする(笑)


そんなんだから今回の記事もだいぶ楽しめました♪



楽しんだあとに、
ふと、
これって幼稚園でも同じだなーと。

子どもって、先生のことをよく見てるからさ。
髪型が変わるとすぐに気が付くんだよね。

それくらい気が付くでしょ〜、と思うかもしれないけど
先生同士だと意外に気が付かないんだよ。

髪を切ったら気が付くけど、
微妙に変えただけだと案外気が付かないのよ〜。

私なんて、
以前ストレートからパーマに変えたのに
先生たちに気が付かれなかったよ(笑)

当時は、
ストレート→パーマ→ストレート→パーマ・・・
と3ヶ月おきくらいに、ちょこちょこ変えていたので
先生達も気が付かなかったんだろうね。

仲間からみた私と、
子どもからみた私とでは、
やっぱり注目度が全然違うわけで。

それだけ先生ってのは注目されているわけだし、
一挙手一投足にまで気を遣わなくちゃいけないんだなって思う。

視点を変えると、
髪型を変えたのに子どもに気が付かれない先生がいたら、
子どもに注目をされていない=信頼関係が築けていない、
ってことで
今までの自分の態度をかなり反省しなくちゃいけないんだろうね。

そういう先生はいないだろうけど、
たま〜〜〜〜〜にいるから。

担任していない子どもにまで気付かれるような先生ってのは
いい先生なんだろうな〜って思います♪



ちょっと容姿を変えた時に、
子どもに

「いつもと違〜う」

って言われるのって、
教師冥利に尽きることだな♪って私は感じています(^^)
| - | 19:02 | - | trackbacks(0) | -
出席をとりましょう


学年の話し合いの中で出た課題として、

「友達にもっと関心を持つには」

が上げられていた。


好きな遊びを見つけられるようになってはきたが、
友達に目がいかないというのだ。

友達に目がいったとしても、

「あの子」
「この子」

と呼んでいて、なかなか名前を覚えないので
友達・友達の名前に関心を持つためには
幼稚園ではどういう援助をしたらいいのか、

というのを話し合っていた。


その話を横で聞きながら、
簡単じゃね?って思った私。

あのね、
その幼稚園、
出席をとってないのよ。

まずちゃんと毎日出席をとれば?って思ったね。


前の幼稚園では当たり前のように毎日出席をとっていたわけ。
必ず、毎日。

クラス全員が揃って椅子に座っている状態で、

「出席をとります」

といって出席を取り始めるのね。

1人ずつ名前を呼んでいき、
名前を呼ばれたら「は〜い」と返事して手をあげる。

これを毎日やるわけ。

そしたらさ、
子どもは友達の名前を覚えるでしょ。

そりゃ〜最初は何となく毎日聞いているだけよ。

でも、この「なんとなく」が実がすごくて。

「なんとなく」聞いているだけなのに、
子どもってちゃんと覚えているのよ〜。


時々、1人とばして呼んじゃったりなんかすると、
すぐに子どもから

「違うよ」

って言われるし。

順番を全部覚えている子どもだっている。
毎日毎日出席をとるからこそなせる業だよね。

友達の名前だって、これで覚えられる。
誰が誰だか分からなくても、
友達の名前を音として覚えていける。

そのうち、
「は〜い」と手をあげて返事をしているわけだから、
それも併せて見ている子どもだと、
名前と顔が一致するようにもなってくる。

そうでなくても、
普段の遊びの中で顔は見ているわけだし、
そこに先生が
「みどりちゃん」とか呼ぶと、
子どもは

「ああ。この子がみどりちゃんか〜。
 ●●みどりちゃん、だ。」

と、そこで出席をとっている場面がフラッシュバックされ
突然、名前と顔が一致する、ってこともある。


出席をとる、ってのは
こういう意味合いもあるのだ。

ただ単に、先生が出欠を確認するためだけのものじゃないんだよ。


あげようと思えば、もっとあるよ。

子どもは名前で呼ばれることに慣れていて、
苗字で呼ばれる機会はまずない。


例えば、「斉藤みどり」ちゃんって子がいたとしましょう。

当たり前だけど、
子どもに対して「斉藤さん」とか、親は呼ばないでしょ。
親も近所の人も名前で呼ぶでしょ。

だから、子どもは自分が「斉藤さん」だとは思ってないわけ。
「みどりちゃん」であって「斉藤さん」ではない。

家でよくお母さんお父さんが、

親「斉藤みどりちゃ〜ん」
子「は〜い」

と返事をする練習とかは小さいうちからやってはいるけど、
それは子どもにとって、
「斉藤さん=自分」という意識には繋がってはいないんだよね。

全く同じことをしているだけなんだけど、
幼稚園だと「斉藤さん=自分」に繋がっていくのよ。

なんでなのかは分からないんだけど、
不思議とそうなんだよね。

そりゃ、最初は「は?」って顔はするんだけど。

というか、
苗字=自分となるように、
先生が時々苗字で呼ぶからかもしれない。

少なくとも私はそうしてたな。

いつも、
「みどりちゃん」とか「みーちゃん」とか呼んでるくせに
時々わざと「斉藤さん」とか呼ぶの(^^)

他人行儀にしているわけじゃなくて、
苗字も自分のことなんだよって意味で。


毎日毎日フルネームで出席をとっているからこそ、
そういうのも身に付いていくわけよ。


あと、
声を出して返事をするってのも、
出席をとることの意義でもある。

「声を出す」ってのは、とっても大事なこと。
挨拶にしたって、声を出さなくちゃ意味がない。

挨拶の大切さは散々書いてきたので
ここでは省くけど。

声を出す、
大きな声で返事をする、

ってのは、
とっても意味のあることなんだ。


いつでもお喋り上手な子・挨拶上手な子もいるけど、
なかには、
なかなか喋らない子、自分の意見を言わない子もいる。

そういう子に対して、
出席をとることで声を発する機会を設けるってのは
とっても意味のある行為。

毎日出席をとれば、
毎日必ず1回はそういう機会が与えられるわけです。

小さなことかもしれないけど、
1日1日の積み重ねってとっても大事なんです。

その小さな積み重ねが、
のちに大きな実を結ぶことだって多々あるんだから。



そんなわけで、
出席をとる、ってのはとっても有意義なことなんです。


出席も取らずに
「友達に関心を示す」「名前を覚えられない」
って問題を抱えているくらいなら、

まず、
全員が揃った状態で、
毎日欠かさず出席を取ってみたら?

って思います。


今の立場上、絶対に言えないので
ここで書いてみました・・・・。

------------------------------------------------------------
*コメントスペースにて私が書いたお返事の内容を
 本文に付け足したくなったので、
 そのまんま こちらに追記させて頂きます。



出席を取るということは、欠席の子の名前も呼ぶということ。

出席をしている子は「は〜い」と返事をしますが、
欠席の子は返事ができませんよね?

だから私は、クラス全員で

「おやすみです」

とみんなで『返事』をしてもらっていました。

私は・・というか、幼稚園どのクラスもですけど。


「おやすみです」と返事をするということは、
出席を取る前に既にその子が休みだとみんな知っているわけです。

別にママ同士のメールのやり取りで知っているわけではなく、
登園してきて、
ちゃ〜んと「いない」と気が付いているんですよね。
空席でも分かるし。

そして「おやすみです」とクラスみんなで言ったあとに、
私が『欠席の理由』を説明し、
「早く元気になるといいね」等と一言。


で、休んでいた子が出席したら、
出席を取って返事をした時に
「元気になってよかったね♪」と一言。

それを毎日やっているので、
お休みの子がいると子ども達からも
「早く元気になるといいね〜」という言葉が出てくるし、
休んでいた子がくると子ども達も
「○○ちゃんが来た〜♪」「元気になってよかったね♪」
と言うようになるわけです(^^)

教師発信ですが、
確実に子どもの心に浸透している思いやりだなって思います(^^)



『出席をとる』って、
本当にメリットだらけなんですよね♪

出席を取らない幼稚園は、
本当にもったいないことをしてますよね〜・・・

| - | 17:54 | - | trackbacks(0) | -
訂正というか・・・・
 「幼稚園の先生の本音」と題打って記事を書くこと3年目。

今更ながら、
今までの記述において、
ちょっと訂正というか注釈を入れたいと思いまして。


今までこのブログ内で、
「年少」の記事、「年中」の記事、「年長」の記事を
色々な角度・観点・話題を書いてきました。

そんでもって、
それを読んで下さった親御さんか
「なるほど〜。年少はこういうもんか」
「年中だとこんな感じか」
「年長になるとここまでできるのか」などなど
色々感じて下さったことと思います。



が。

今更ですが、盲点に気が付きまして。


一口に「年少」と言えないこと、
一口に「年中」と括れないこと、
一口に「年長」を称してはいけないことに

今更気が付きました。


というのは、
例えば、

同じ「年中」でも
公立と私立とでは全然違う。

同じ「年中」でも
3年保育と2年保育では全然違う。
はたまた3年保育と2年保育が混在する年中では全然違う。

同じ「年中」でも
幼稚園と保育園とでは全然違う。


・・・ということに、改めて実感したからです。


本当に、
同じ「年中」でも全っっ然違うんです。

地域色とはまた違いますよ。
地域色の話をしているんじゃなくて。


ここまで違う?ってくらいに全然違います。

同じ
「私立で、完全3年保育の年中」という肩書きでも
幼稚園によって全然違うんですけど、

そういうレベルを遥かに超えるほど、

私立か公立か、
2年保育か3年保育か混在か、
という違いは大きいんです。


私が過去に書いてきた記事内容の「年少」「年中」「年長」の括りは
「私立・完全3年保育」という条件におけるものだということを
注釈を入れるのを忘れていたな、と・・・。


基本的な保育観・子育て観の話だと
そんなことは別に関係ないのですが、
保育内容・幼稚園における幼児の発達内容の話となると
別物になってきちゃう。


それほどまでに、
公立と私立の保育内容は違うんです。

それほどまでに、
2年保育と3年保育は違うんです。

それほどまでに、
幼稚園と保育園は違うんです。



どっちが良いとか悪いとか、そういう問題ではなくて、
違うものは違うとしか言えないんですけど・・・。


じゃ〜、
具体的にどこがどう違うのか。

めっちゃ書きたいんだけど、
それを書き始めたら、
恐ろしく長〜〜〜〜〜〜くなるので・・。

それはまた機会があったらってことで。


とりあえず、
今更だけどこれを言っておこうと思いまして。



「なんでそんなに「違う」と断言するのよ。
 大して違わないわよ!」

というご意見もあるでしょう。

うん。
そうかも。

私も多くの幼稚園・保育園を回っているわけではないので
そんな大それたことは本当は言えないんだけどさ。

ただ、
生まれてから今まで通算すると、


●5年保育、公立保育園
●6年保育、公立保育園
●2年保育、公立幼稚園
●3年保育、私立幼稚園
●2年保育、私立幼稚園
●2年保育&3年保育混在型、私立幼稚園


を私は経験しているわけでして。

通っていた、勤めた、実習にいった、研修にいったetc
全てを含めてだけど。

それらを踏まえた上で「全然違う」と言っているわけです。


「全然違う」というのを
最近改めて実感しているところでして、
そしたらハッとブログでの記載内容のことに気が付いて
今更ながら一言注釈を入れておこうと思った次第であります。


ただここで1つ言いたいのは、
「違う」というだけで「当て嵌まらない」とは言っていないということ。

当て嵌まるかどうかは、幼稚園・保育園の努力次第だもん。

「私立幼稚園の子どもには無理」とは思わないし
「公立幼稚園の子どもだから無理」とも思わない。


保育の仕方によって、
不可能は可能になるし、
逆に可能も不可能になっていってしまう。

そういうことも、いま、痛感しています。



何の話をしているのか、
てんで意味不明の方もいらっしゃるでしょう。
すみません。

でも、
これが
今の私の「感じている本音」なんですよ。

本音を書くブログなので、
ありのまま、感じたままの内容を書いてみました。
| - | 22:04 | - | trackbacks(0) | -
言葉が持つ威力
今日ネタにしたい「言葉」とは、

 ネットや紙に書く文字という意味の言葉ではなく、
頭の中で考える言葉でもなく、

声に出して発するという意味の「言葉」。

この言葉には、とんでもない威力が秘められている。


言葉というのは、時に人を深く深く傷つける。
暴力で傷付いたものは、いつか治癒するけれど
言葉により受けた傷というのは、いつまでも残る。

時に言葉というのは暴力よりも
人を深く深く深く傷つけてしまう。


そういうマイナス面での威力もあるのだが、
まったく反対に、
プラスの面でも絶大なる威力があるのだ。

今日は、
そのプラスオーラ満載の言葉の威力について書いてみよう。





幼稚園にいると、
よくこんな言葉を子どもたちは放つ。


「できないー」


いとも簡単に「できない」って言う子もいる。
試しもせず、挑戦すらせずに
すぐに「できない」と言う子。

何でもやってもらっている子がよく使う言葉でもある。

今日書きたいのは、
なぜ簡単に「できない」というかのカラクリではない。

実際に幼稚園で多発するこの言葉。
これを子どもに言われた時、
どう対応しているか、を書きたいんだよね。

分析もいいけど、実践でどう対応するかが大事だし。


「できな〜い」は
家でもよく言うんじゃないだろうか。

だったら、今日は是非参考にしてほしいな。


ぶっちゃけ、

「できない〜」

と言われると

「『できない〜』じゃなくって自分でやって!」

と思う人も多いのでは?


難題に対して「できない」と言うのならまだしも

服が脱げないだの、
靴下が履けないだの、
鞄のチャックが閉まらないだの、

ちょっと頑張ればできる内容のことで
すぐに「できな〜い」と言われたら、
「それくらい頑張ってよ」と思うよね。



しかし。
ここで、
「それくらい自分でやって」と言うのはよろしくない。

言いたいけど。

忙しい時に「できな〜い」なんて言われたら
「自分でやって」と言いたくなるけど、
もっといい返事があるのだ。


私はいつもこう答えるようにしている。


「できな〜いと思ってたら、できるわけないよ。
 できる!と思えば、できちゃうもんなんだよ〜☆

 言葉って不思議でね〜、
 『できな〜い』って言うと本当にできなくなっちゃうの。
 でもね〜、
 『できる!』って言うと、不思議なことに本当にできちゃうんだよ!!!!」


すると、子どもはノッてきてくれる。

つい今まで「できない」と他力本願だった子が

「できる〜!」

と言い出すのだ。
で、すかさず

「あ、いいね〜!もしかしたら本当にできちゃうかも〜!」

と、『できる』と言葉に発したことをまず褒める。
すると、幼稚園では周りに友達がいるので、
他の子達も連鎖して

「できる〜!」
「僕もできる〜!」
「私もできる〜!」

と『できる』の嵐になる。


『できる』と自分の口で言葉として発したことにより、
そしてそれを褒められたことにより、
生まれてくるのが『やってみよう』とする気持ち。

子どもは自分で挑戦し始めてくれるのだ。
そこで、すかさず

「あ!自分で頑張ってる!
 えら〜〜〜い!
 きっと本当にできちゃうよ!」

と更に追い討ちをかけて褒める。

あちこちで自分でやり始めたら、
それこそひっきりなしに褒めまくる。


「○○ちゃんも自分でやってる!偉いね〜!
 △△くんもだ!すごいな〜!
 あ!☐☐ちゃんも頑張ってる!偉い〜!
 ××くんも!?●●ちゃんもだ!すご〜〜い!」

と、どんなに人数がいようと、
1人ずつ名前をちゃんと呼んであげて褒める。

いっしょくたに褒めるのもいいのだが、
個人名を呼んであげた方が、
子どもの立場になってみれば嬉しいに決まってるもん。

そこは
「1人ずついちいち名前を呼ぶのは大変」
と思って横着してはいけないところだなって私は思う。


すると、その内に誰か1人が本当にできるわけ。
そしたら

「あ〜!本当にできちゃった〜〜〜!!!!!!!!
 『できる!』って言ったら本当に1人でできちゃった!
 ○○ちゃん、すご〜〜〜い!!!!!!!!」

と、思いっきり褒める。
表情豊かに、
先生はとびきり嬉しい!という表情で褒める。

それを見た他の子どもたちは
一気に火がつき、できるまで頑張ろうとしてくれるんだよね♪

簡単にできる子もいれば、
時間がかかる子もいる。

時間がかかる子に対して忘れちゃいけないのが



「頑張り屋さんだね〜!」

「一生懸命頑張っててすごい!」

「ゆっくりでいいからね。大丈夫、絶対できるから!
 ちゃんと先生は見てるから、ゆっくりで大丈夫だから(^^)」



という声掛け。

周りができてきて自分だけうまくいかないと、
段々「やっぱり無理。できない」と心が折れてきてしまうので、
心が折れる前に、
こういう言葉掛けをして、
気持ちが続くようにしてあげるのだ。

で、本当に、ちゃんと最後まで見守ってあげること。
できるまで見守ってあげること。

無理そうだなと思ったら、ちょっぴり手を貸してあげてもいい。
最後までちゃんと見届けてあげることが大事。


「先生は余裕があるからできるのよ。
 家じゃやる事いっぱいで忙しくて、とても無理。」


いやいや。
そんなことはございません。

忙しいのは百も承知。
だから、何もずーーーっと見てろ、って意味じゃないんです。

何かしながらでも見届けることはできる。

食器洗いながらでも、
片付けしながらでも、ね。

やろうと集中している時は、それに夢中でしょ?
その隙に何かしていればいいのよ。

子どもが顔を上げたとき、
こっちを見たときに、
すかさず目を合わせてあげて

「頑張ってて偉いな〜」
「ゆっくりでいいから大丈夫よ」

と言ってあげればいいだけ。
簡単簡単。

そして、できた暁には
本当に心から褒める。

顔をくしゃくしゃにして褒める勢いで、
思いっきり褒めてあげる。

というか、
さっきまで「できな〜い」と他力本願だった子が
自分で頑張って自分でできた、という事実を目の当たりにすると

『褒めてあげる』という感覚じゃなくて
本当に私もすんごく嬉しいんだよね。

だから、心からの賛辞になる。

その気持ちも子どもに伝わるので、
子どもも、できた喜びが倍増するんだよね♪


「できない〜」と不安だった顔が、
できたことへの満足感・達成感が満ちた笑顔に変わる・・・

すんごく素敵な表情になるのよ〜〜〜!!!!!!!!
たまんないね♪


元を辿ると、
きっかけは、何てことない、
ただ「できる」と言葉に発しただけ。

それだけなのだ。


自分の口で声を出して言ってみるだけで
恐ろしいほど威力を発揮する。

そんな不思議なパワーが言葉にはあるんだな☆


「できな〜い」の類似品が「わからな〜い」。
これも同様の効果あり。

是非お試しあれ!


あ、おまけで もう1つ。
大人バージョン。

その名も


「ま、いいっか」


子どもの着替えが遅い、
泥んこ遊びで服がドロドロ、
こぼしてばっかりいる、
やる事が遅い・・・・etc


いろんな場面で、子どもにイライラする時があるでしょう。

そんな時に役立つのが、この
「ま、いいっか」です。


「自分で着替えてるんだから、まあいいか」
「泥んこでも洗えば、まいいっか」
「こぼしても、後で拾ってもらえば、まあいいか」
「やること遅いけど、これも個性??ま、いいっか」

これを、心の中で思うんじゃなくて
自分で声に出して言ってみましょう。

すんごい効果あり。

神経質だったり、色々気になっちゃったりする人だと、
声に出した後でも

「やっぱりよくない〜〜!」

と思うんだけど、
そこでまた、敢えて

「ま、いいか・・・」

と声に出して言ってみる。
意外に、気持ちが落ち着きます。

子どものやることにアレコレとイライラハラハラするよりも、
余裕を持って見守る方がいいもん。

忙しいと、どうしても余裕はなくしてしまいがち。

忙しいのに子どもに手がかかると、余計に忙しくなり
余裕の「よ」の字も消えてしまいがち。


「ま、いいっか」は、
そんな時に余裕を与えてくれる魔法の言葉なんです〜。


私は幼稚園でこれをよく実践してます☆

超多忙で、ひーひー言ってる時、
忙しさピークの時に、
子どもが花瓶を倒したり、何かを壊したりなんかすると、

も〜頭ぶっこわれそうな位、いっぱいっぱいになっちゃうんだけど、
そんな時に

「ま、いいっか」

と言ってみると、心に余裕が生まれるんです。

そうすると、
子どもに柔らかい態度で接することができる。

余裕は大事だから。

余裕を生む魔法の言葉「ま、いいっか」に
何度お世話になったことか!(笑)



発する言葉には、すごいパワーがあるんです。

子どもが「できな〜い」と言った時、
「分からな〜い」と言った時、
忙しさにいっぱいいっぱいになった時、

是非、言葉の持つパワーを利用して乗り切ってみて下さい♪
| - | 23:15 | - | trackbacks(0) | -
ブラボ〜!
 今日、生まれて初めて「サーカス」なるものを観ました!

ヴェガスを中心に、
フロリダ、中国にその劇場を有する、
あの団体です。

いやぁ〜〜〜、
超感動!

どうやら私は感動屋さんみたいで、
感動するとすぐに目頭がうるうるきてしまう。

オープニングで既に。

ショー関連には、いたく感動しやすいので
もう最初っから最後まで、
ずっと大口開けっ放しで〜。

私の顔を撮影していたとしたら
さぞかし くるくると表情が変わって豊かだったことでしょう↓


すごーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!
すごーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!


興奮おさまらず!

人間ってすごいなぁ。
なんであんなことができるの!?

すんごい。
すごすぎ。
感動しっぱなしでした!

すごいな〜
すごいな〜



感動するって、いいね。

舞台って、凄く感動する。
なんでだか分からないけど、凄く感動する。

「うわ〜〜〜!」って、おめめキラキラさせちゃって、
ドキドキワクワク観る感じが好き。
自分の感情表現が凄く豊かになる感じも好き。

すごいパワーを持ってるんだもん。
感動しまくり〜〜o(≧▽≦)o

表情は豊かになっても、
語彙力・文章力は豊かじゃないので
「すごい」「感動」としか書けない自分が情けない〜〜〜。

この感動を文章で表現できない自分の文章力の無さが恨めしい〜(T_T)


とにかく、
めっちゃくちゃ感動したわ〜〜♪


ライオンキング以来かも!

ライオンキングは ほぼ毎年観てるけど
毎回同じように感動しまくるからな〜♪

ライオンキングは海外に行った時に観に行くから
1人旅行をする私には感動を分かち合う人がいないんだけど、
今回は一緒に行く人がいたので、
感動が分かち合えて、感動が更に2倍3倍になったね〜!


いやいや〜、
感動さめやらないね。

文章がめちゃくちゃだろうが、
支離滅裂だろうが、
もうどうでもいいくらい♪

楽しかった!感動した!

その一言に尽きます!
・・・あれ?二言か(^^;

観たことない人には、
是非是非是非是非オススメです〜♪


感動しっぱなしだった私だけど、
1つだけ、感動以外の感情もあって〜。


それは、ピエロの動作とパフォーマンス。
ピエロの人って、ものすごい表現力だよね。
言い方は失礼かもしれないけど、
大道芸の頂点って感じで。

私にとって大道芸は、ものすごい尊敬の対象なので
ピエロは私にとってものすごい存在だな〜。
神様みたいな感じ?
すごすぎて崇めちゃう感じ。


そんでもって大道芸といえば、
私にとっては真似する対象でもある(^^)

以前も外国の大道芸人の演技をじーーーーーっと見て
家で練習して幼稚園でやったことがあります☆

今日のピエロの数々の素晴らしい演技の中で、
1つ真似できそうなことがあったので、
ちょっと練習してみようかな〜って思いました〜。

2人いなくちゃできない演技なんだけど、
1人用アレンジに挑戦してみようかなと。

うまくいったら
今度幼稚園でやっちゃお〜♪

感動プラス野望が生まれた日でした〜〜〜。
| - | 20:14 | - | trackbacks(0) | -
先見の明を
 先生たるもの、
保育にあたって先見の明を持たなくちゃ。

今日、
「え〜・・・・」って場面に出くわしちゃって。


子どもの目線を全く考慮してないっていうか・・・

たとえば、
黒板に何かを掲示する時に、
黒板のどの辺りに貼れば一番後ろの子どもまで見えるか、
それを考えて貼るでしょ?

前にも「黒板」の記事の時に書いたけど、
そもそも事前に1人で練習してみて
どの辺に貼ればいいか研究するでしょ。

当然、下の方に貼ったら後ろの子は見えない。

子どもの目線に貼ったら見えるかというとそうでもない。
距離感・遠近感というか、そういうものがあるので
子どもの目線よりも上の方に貼らないと見えない。

子どもは見ようと思ってちょっと立ち気味になってしまう。
そうすると後ろの子にしてみれば
前の子が立ってしまうので見えなくなってしまう。

その辺も先読みして、さらに上の方に貼るようにする。

実に当たり前のことだと思うんだけど・・・

こんなのいちいち書くまでもないし、
誰もがそれくらい考えていると思ってました。

偉そうな口調かもしれないけど、
これを読んでいる幼稚園の先生がいるとしたら
みんな

「うんうん。そりゃそうだ」

と思って読んでいると思うんだよね。


クラスではもちろんだし、
園児が集まって何か催し物をするような場合でも同じこと。

そっちの方が、子どもが立ちやすいので、
子どもが見えるような高さを考えて
予め台を用意したり、台の高さを考えたりするもの。


私も、以前、
舞台の上に台を置き、その上でペープサートの劇をする際に、
1人で全部やるため、
まず台にペープサートをはめ込む差込口を作り、そこに差してみて、
舞台を降りて、色んなところに座ってみて見えるかどうか確かめて・・・

後ろの子には見えるけど、
前の方の子だと遠近法により、
ペープサートの下の方が台の陰に隠れてしまうことに気が付き、
更に差込口の位置を調節し、
また差して、また舞台から降りて座って確かめて・・・

そんなのを何回も何回も繰り返すわけ。

子どもが大勢集まる広いホールなので、
どこに座っても、どこからでも見えるような舞台設定にしなくちゃいけない。

「見えな〜〜い」

となってしまうと、
子どもは立ってしまい、
立ってしまうと後ろの子まで立ってしまう。

子どもが見えなくて立ち上がる、
というのは、明らかに教師側の設定ミスだと私は思っています。

子どもが見える位置、を確認したり調整したりしていないから
そんなことになる。

どこに置いたらいいか、
どの位置なら全員の子どもが見えるのか、

それは先生が事前に考えて用意しておかなくちゃいけないこと。



新人の先生がミスをして、
子どもが立ち上がってしまうのなら仕方ないし、別にいい。

まだそこまで頭が回らないだろうし、
失敗したってそこから学べばいいんだもん。

新人の先生ってのは、失敗してナンボでしょ。
「しまった〜・・・」と思って、次に生かせばいい。


でも、
経験年数2桁の先生がそんなミスを犯しているのを見ると、

「なにやってるの・・・↓」

と呆れてしまう・・・。


失礼ながら、
「どう考えたって、それじゃ子どもが見えないでしょ??」
という位置に設定しているのを見た瞬間ガックリしてしまうよねー。

案の定、子どもたちは立ち上がってしまい収集つかない事態になっていた。



こういうことって、
経験年数じゃないんだなって思ったね。

前の幼稚園の後輩で、
こういうことを実によく考えて設定している先生がいた。

当時2年目の先生。

子どもの目線をよく考えていて、
常に子どもが見えやすいように設定していた。

クラスでも、
ホールで子どもたちが沢山集まる場合でも、
ちゃんと子どもが見える位置ってのを考えていたもん。

経験年数が浅いのに、実にブラボーな先生だったよ♪


2年目でもできる先生はできる。
20年目に手が届く先生でもできない人はできない。


経験年数じゃないんだな〜と改めて実感。


細かいところまで先見できるかどうか、
細かい心配りができるかどうか。

ひいては、子どもへの目配りにも通ずるんだよね。


ベテランだから、いい先生だとは限らない。
新人だから、頼りないとは限らない。

人間性の問題かなって思います。



私も見落としているところが多々あるだろうから、
もっと細かいところまで気を配っていこうと思いました。

人の振りみて我が振り直せ、だね。

気をつけなくちゃ。


| - | 22:10 | - | trackbacks(0) | -
着替え
 幼稚園での服装。
幼稚園により様々だと思う。

私服・制服・体操服・・・。

さまざま。

それぞれメリット・デメリットもあるんだけど、
私個人の考えでは、
幼稚園で「着替え」の時間がある方がいいと思う。

というのは、
家ではなかなか自分で着替えさせないでしょ?

お母さんが舘手伝ってあげちゃうんじゃない?

着るのは自分でやらせても、
ボタンとか、スナップボタンとか、チャックとか・・・

子どもがやると時間がかかるし、
「できなーい。やって」と言われると
「はいはい」とすぐにやってあげちゃうんじゃないの?

その方が早いし、
「まだできないかな」とつい甘く評価しちゃって。


だから、
幼稚園で着替えがあると
その分子どもは「着替える機会」が増えることにより
経験が多く積めるので
成長も早いんじゃないかなーって。


例えば、
私の幼稚園では、
制服で登園し、体操服に着替えてから遊ぶ。

体操服で1日過ごし、
帰りにまた、体操から制服に着替える。

制服にはボタンがあり、
スナップボタンも存在する。

ボタンはお腹部分にあるが、
スナップボタンは襟元にあるため難易度が高い。

でも、
先生が手伝うのは、せいぜい5月まで。

あとは「できな〜い」と言ってきても
手伝わずに応援にまわる。

多少の援助は時と場合によってすることもあるが、
基本的には手を出さずに子どもに自分でやらせるようにしている。

そうすることで
子どもは自分でやろうと頑張るようになるんだよね〜。
その成長たるや、本当に著しいし。


そして、
子どもの着替えを見ていると、
家庭での着替えの様子が分かるんだな〜〜〜〜。


子どもに自分で着替えさせている家庭、
親が着せている家庭、

もう丸分かりです。


自分で着せてはいるけど、
着やすいように床に置いてあげる所まではやっている家庭、
裏返しは直してあげている家庭、

そこまで分かっちゃうんだなー。


できるできない、で分かるんじゃないよ、
子どもの態度で分かるのよね。


やってもらっている子どもは
すぐに先生に頼ってくる。

いつもやってもらっているのが当たり前なので
幼稚園でも自然に同じような環境を求めてくるんだよね。

子どもにしてみれば当たり前だよね。

いつもやってもらってるんだもん。
幼稚園でもやってもらわなくちゃ。


しか〜〜〜〜〜〜し。
幼稚園はそんなに甘いところじゃあない。

先生は、
そう見破るや否や、

「よし!自分で着替えができるようにするぞ!」

とスイッチが入ってしまうのだ(笑)


泣こうが騒ごうが駄々こねようが、
1度甘やかしてしまうとインプットされてしまうので
とにかく励まし手は貸さない。

っていうか、
いきなり突き放してもダメなので、
本当は手を貸してはいるんだけど、
子どもに「先生が手伝ってくれた」とは思わせないように
こっそり手を貸しているのだ。

自分でできるようにするのが目標なので、
あくまでも手を貸していることを子どもに悟られてはいけない。

『自分でできた!』と暗示をかけて自信に繋げるためにも
絶対に手を貸していることを悟られてはいけないのだ。

とはいえ、
最初のうちに
先生は全く手伝いませ〜ん、って態度に出ていると
子どもはやる気を失ってしまう。

「やって!」と泣きついてくる子どもには
その態度はダメなのだ。

自分でできるようにさせるためには、
『自信』が絶対必要不可欠。

だから、
まずは自信をつけさせるための援助をする。


例えば、
ボタン1つにしても、

「先生は裏から押すから、○○くんは引っ張って〜」

と言って、共同作業的な感じでボタンをはめる。

で、はまったところで

「え!もうできちゃったの!?
 今、先生全然力入れてなかったよ!
 軽〜く本当にちょっとしか押してないもん!
 すご〜い!自分でできちゃったね〜」

と、とにかく褒める。
本当は思いっきり裏から押していたんだけど
そんなのはどうでもいい。

「自分でできた」と暗示をかけるのだ〜。
すると自信が付き、やる気に繋がるから。


襟元のスナップボタンにしてもそう。

難しいから子どもにはできない、とは教師は絶対に思っていない。
やる気の問題だと思っているからね。

そもそも幼稚園の制服として作っているんだから
園児が1人で着られない物を作るわけがないのだ。

年少でも十分1人で着られるものが制服になってるんだから。


だから、
制服を簡単に着られるように家庭で改造なんかしてあると、
カッチ〜〜〜〜〜〜ンときちゃう。

スナップボタンをマジックテープに代えてあったり、
吊紐を結わえて吊紐なしタイプに変えてあったり、
ボタンのサイズを変えてあったり・・・・

なるべく負担にならないように、
余計なところで不安にならないように、
着替えごときで躓かないように、

という親心なんだろうけど、
親の優しさなんだろうけど、

それは
子どもの挑戦する機会を奪ってしまうことになるから・・・

改造はしないでー。




裏返しもね、
自分で直す方法さえ教えてあげれば
自分でできるから。

教える、というのは手間がかかること。
なかなか覚えないし、
やる気にさせるのも一苦労だし。

でも、
その手間・苦労を惜しんでいては子どもは伸びないから。


なんかまとまりなくダラダラと書いているから、
自分でも何が何だか分からなくなってきたけど、

とにかく、

着替えを自分でやらせてほしいってこと。

裏返しも、
ボタンも、
全部。

時間はかかるかもしれないけど、
できるから。

(できるのにやらずにダラダラ時間がかかる、
 ってのは次のステップでの問題点。)


自分のことは自分でできる。
自立心を養う。

これは着替えでも言えること。


やってあげてちゃダメですよ。

着替えは自分で。

そしてできたら

「もう着替えちゃったの!?はや〜〜〜い!」
「自分でできちゃったね〜!すごいな〜」

等と大袈裟に褒めてあげることですね♪

心がこもっていない言葉だけの褒め言葉だと効果がないけど、
心がこもっていれば、褒め言葉は子どもの自信に繋がりますから!


何でも自信をつけさせてあげないとね♪



なんか支離滅裂だけど、
そゆことです。
| - | 03:35 | - | trackbacks(0) | -
| 1/4PAGES | >>